他人三世代

マンションに住んでます。

深淵からよく帰って来れなくなる性

担当はみーくん

 

映画を鑑賞。

『淵に立つ』深田晃司

 

私は脚本を書く上である種「目的」や「指針」になるものは必要だと思う性だ。

それは繋がりや関連性を生み観客の想像力を刺激するものにもなると思う。今作を観てこの映画は何の目的で作られたんだろうと漠然とした疑問が残る。主観描写が殆どなく冷徹なまでに「第三者視点」を重視しているため観客はキャラクターたちへの同化を拒まれる。

監督のロングインタビューを拝見してその構造の意図がわかった。以下インタビューの一部抜粋

 「映画というのが特権的なものじゃなくなったときに問われるのが、“なぜ映画をつくるのか‘’ということで、そこで求められるのが個々の視点、つまりは作家性だと思います。そこには、映画という装置を通しながら、‘’自分にはこんな風に社会や世界が見えている‘’というような、世界の見え方をきちんと示していくということだと思うんですね」

 

監督の世界の見え方を押し付けるのではなく、ただ「示す」ための第三者視点か。

もちろん「これが私の世界」と主観的に撮影する選択もあったとは思う。しかし、そこは企画意図に沿って作者の視点=キャラクターの視点とならないよう、ただ「点を置いた」ような距離を取った演出には痺れる。

作品との距離感を間違えると全体像が見えなくなり迷走や説教臭さを引き起こす。

監督の作品との「距離の取り方」には刺激を受けた。

以下再びインタビュー抜粋

 「大きな物語や神話があったからこそ、その中で個人の問題を忘れさせることで、なんとか人間は生きてこれた部分があるとは思います。一方で、それはどうしても個の抑圧や排斥と裏表でした。ただもう時代は変わってしまった。これからはいかにして個が個として個のままで生きていくかということが大事で、問われている時代だと思うんです。なのにフィクションがいつまでたっても、“大文字の歴史”や神話性を無邪気に肯定しているのは、いかにも前時代的なんじゃないかと思っています。」

 

確かにこれからは個が個として生きていけるかは大切なことだろう。個性を必要としない均一化された仕事の大部分はAIが取って代わるだろうし、周囲に受け入れられるか、どう見られているかばかり気にして動けなくなった末、葛藤が起こり精神疾患にでもなったら笑えない。

しかし、そうした抑圧された人々はファンタジー性を逃避を孕まないリアルな話を見たいだろうか。私は見たくない(笑)

前提として見てもらわないと作品は成立しえないことを考えると、ただリアルを切り取ったような作品では劇場に足を運んでは頂けないだろう。「ファンタジーを装った現実を誇張した個人の話」のような途中で梯子を外すような話は面白いかもしれない。

アニメの形を借りて実写的な作品を作るとか。あ、既視感が…