他人三世代

マンションに住んでます。

不調から健やかなる日へ(後編)

前回の続き

 

今までの私は「自分が観たいもの、面白いと思えるものを作りたい」という意志目的の下脚本を書き、映画を作ろうとしていた。しかし、その「観たいもの」は当然陳腐なものではなく(そう思いたい)見たことないような映像表現であったり、物の見方を体現したものと言える。そんなものを今から作ろうとしたって、せいぜい出来上がるのは今にも崩壊寸前のバベルの塔ぐらいなもんだ。
現実を直視できない私にはお誂え向きだが。
それを分かってなかったんだか分かりたくなかったんだか、当初の目的意識は少々今の私には突飛なものだったと言える。
飛べない物は飛べないのだ。高跳びだって飛ぼうと思ったところで、目の目に三メートルのバーが設置されれば誰だって二の足を踏む筈だ。
「どうすんのこれ」
ハードルを下げられたからよかったが、厄介なのは「じゃあハードルを下げればいい」と考えても腑に落ちなかったことだ。私は大体が人からなんて言われようと、自分の言葉で繰り返したり納得しないと真に理解できないたちだ。面倒くせ。
今回も「映画監督として、脚本家として成長したい」これが出たことによってようやくハードルを下げられた。
この動機は詰まるところ、「成長できると思えること」に焦点が当たっているため、その結果が自分の見たくない作品になったとしても、成長できてればいいという前回よりかなり気楽なものになっている。全然詰まってない。
しかし、成長できると思える課題は往々に面白いものに紐づいてるわけであって、それをクリアしていけば当初の「見たいもの」という目的すら達成し得るポテンシャルを秘めているのだ。詰まるところ自分を欺いているともいえる。


とことん面倒くさい奴だ(笑)。